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昔、こんなことがありました

 学校に保存されている資料から、本校と児童生徒に関する主な出来事を紹介します。

 障害児教育の不足や障壁が、多くの人々の善意とたゆまぬ努力によって克服されていったこと、

 それにより児童生徒が励まされ、本校が発展していった歴史を感じとっていただければ幸いです。

 灰色の文章は略史にある事項、青色の文章がこのページで挿入された記事です。


 

西多賀ベッドスクール時代のエピソード

 

 

35年 7月 仙台市立西多賀小・中学校療養所分校となる。

 

35年 7月 1日、玉浦小・中学校矢野目分校廃校式と西多賀小・中学校療養所分校開校式が行われた。(参考:1960/7/2河北新報、1960/7/2毎日新聞)【写真】

 

35年 7月 日本鳩レース協会主催の100キロレース(水沢―仙台間)で、“ベッドスクール”から参加した6羽の鳩のうちの1羽が水沢―玉浦(旧玉浦療養所鳩舎)間109キロを1時間44分で飛び2等になった。しかしタイムを計るため玉浦からさらに岩沼まで10分間飛ばなければならなかったため、子供たちは「ベッドスクールにタイマーがあれば優勝していた」とくやしがった。これを聞いた宮城県鳩レース協会がベッドスクールの子供たちのために特別に優勝カップを作り、賞状に加えて贈呈した。(参考:1960/7/22河北新報) 【写真】

 

35年 9〜10月 玉浦療養所(カリエス=骨関節結核の療養所)と西多賀療養所(肺結核の療養所)の合併により、玉浦療養所の子供たちは西多賀療養所に引越し、“ベッドスクール”も西多賀に移転した。しかし以前から西多賀療養所で療養中の肺結核の子供たち10名(いずれも軽症)には学習の機会が与えられておらず、入院前に通学していた小中学校の在籍のまま何年間も放置されていた。近藤所長が仙台市教委に養護学級の設置を陳情しても、「勉学より療養が先」と突っぱねられ、「勉強させてはならない」と厳しく指導されるありさまだった。たまりかねた近藤所長と主治医は、肺結核の子供たちをカリエスの子供たちと一緒に勉強させ試験も受けさせたが、肺結核の子供たちにとっては養護学級として認められていなかったため、正式の通信簿が出せず進級も認められなかった。やがて保護者も一緒になって仙台市議会への陳情・運動を繰り返した結果、障壁である教員配置の問題を残したまま、明春からの養護学級設置が認められ、とりあえず10月から肺結核の児童生徒10名の学籍を、カリエスの子供たちが学ぶ仙台市立西多賀小・中学校療養所分校に移す手続きが行われた。(参考:1960/9/27河北新報、1960/10/28河北新報)

 

35年10月 全国のカリエス児の親の会である「全国カリエス児療育連盟」が結成された。(参考:今野喜美子『おかあさんの骨をもらって歩けた』p234)

 

36年 4月 当年度から国と県が医療費と学費を補助する「療育費補助」制度が一般結核児にも適用されるようになった。(参考:創立10周年記念誌p4、p11)

 

36年 4月 西多賀療養所内にベッドスクール専用の病棟(計画の半分)が完成した(第7病棟=鉄筋コンクリート2階建て、総床面積1320u、総工費2800万円)。病室兼教室は、医療法の基準より広いため明るく、仕切りが木製の蛇腹式で開放すれば大部屋になる構造で、カリエスの子供たちが入室した。一方、肺結核の子供たちのためには、既存の第2病棟(木造)を改修・改築し、丸ごと療養学級専門病棟にした。(参考:1960/12/29河北新報、1961/4/5河北新報)【写真:当時の西多賀病院全景。画面中央の黄色で示した建物が第7病棟。緑色で示した建物が第2病棟。】

 

36年 5月 父母教師会(PTA)が「親の会」に改組した。(参考:創立10周年記念誌p10、21、110)。19日秩父宮妃殿下ご視察(こうやまきを記念植樹)。

 

36年 5〜8月 カリエスで療養中の今野君のお母さんが「県民の母」第1号に選ばれ、母の日の14日、仙台市内で開催された「母の日大会」で感謝の花束を贈られた。これまで名士の夫人が選ばれていたことに「形式的だ」との批判が生まれたため、県下に広く“母の代表”を求めることにしたところ、カリエスで9年間闘病を続ける子供のために34年11月に自分の骨盤を削って移植した今野さんが選ばれた。その後6月と8月には、今野さん一家の体験がテレビで全国放映(NETテレビ ・東北放送テレビ「暮らしの医学・第36回・この母の願い―カリエスと闘う母と子の記録」)された(38年5〜9月に続く)。(参考:創立10周年記念誌p111、創立20周年記念誌p.18、1960/5/8毎日新聞、1961/5/13毎日新聞、1961/5/13読売新聞、1961/5/15読売新聞、1964/8/11河北新報 、NETテレビ・東北放送テレビ「暮らしの医学・第36回・この母の願い―カリエスと闘う母と子の記録」放送台本)。>>今野さんについて詳しくはこちら

 

36年 7月 画家・菊地さんが病棟の壁に描いていた星座の壁画が完成した。菊地さんは国画会の会員で文春画廊で個展を開くなど画壇でも注目される新進画家の一人だが、戦時中の過労のため結核からカリエスになり、知り合いの近藤所長を頼って4月から西多賀療養所で療養していた。子供たちが明るく元気に勉強している姿に心を打たれ、はじめ子供たちに絵を教えていたが、「子供たちに夢と知識を与え、励ましになれば」と、仙台七夕に題材をとって星座の壁画を描くことを思いついた。病状を気遣った近藤所長も負けるほどの熱意で、第7病棟の階段の壁に足場を組んで制作に取り組み、色彩豊かにメルヘン風の星座(高さ4m×幅12m)を描いた。また同時期、東北学院大学セツルメント会の学生たちが庭園づくりの奉仕活動に取り組み、病棟前の500uを整地して、バラ園や芝山それを囲む花壇などを作った。学生たちは病棟近くにキャンプを張り、子供たちの勉強をみたり、夜には映画会や影絵会などを企画しながら庭づくりに取り組んだ。(参考:1961/7/22読売新聞、1961/7/30毎日新聞)<<解説>>当時の第7病棟は、その後取り壊されたため壁画は現在残っていない。【写真:昭和37年12月ごろ撮影】

 

36年 8月 西多賀ベッドスクールの第一回同窓会が、5〜8日の3泊4日で開かれた(参考:創立10周年記念誌p111)。

 

36年 9月 松竹の新進人気女優の岩下志麻さんがベッドスクールを慰問した。岩下さんは映画「あの波の果てまで(完結編)」のロケ地(宮城県女川町)へ向かうため仙台空港から移動の途中、近所にベッドスクールがあることを聞き、急遽見舞いに立ち寄った。思わぬ来訪者に子供たちはすっかり感激。岩下さんは、求められるサインにも気軽に応じていた。(参考:1961/9/20河北新報)

 

36年10月 子供たちが作った石材盆栽(約50点)が仙台市内のデパートで展示販売された。ベッドスクールの子供たちの卒業後を案じる近藤所長が、芸大彫刻科で学んだ造園家・鈴木さんの応援を得て、子供たちに石材盆栽の作り方を指導した。材料の鳴子石を刻んで、コケや木を植えたものを水盤に入れて鑑賞する。鈴木さんも驚くほどの出来栄えで、デパート側の協力もあって、この展示販売につながった。(参考:1961/10/1読売新聞)

 

36年12月 東北薬科大学赤十字団と同大学合唱団の学生40人が来校、一足早いクリスマスの集いを開いた。小中学生の教室を一つ一つ回り、コーラスなどで子供たちを慰めた。(参考:1961/12/11民友新聞)

 

37年 3月 このころ西多賀ベットスクールは50床以上の空きがあるガラガラ状態だった。これは、4年前スタートした療育費補助制度を利用すれば医療費はほとんど無料となり学用品や日常経費も支給してもらえるようになっていたにもかかわらず、この制度の存在が一般には知られていないため、県内に約3000人と推定される要治療結核患者のなかでも、成人に比べて医療費が高くつく小児結核は自宅療養を継続する者が多いからだろうと考えられ、このような認識から西多賀ベッドスクールの現状と療育費補助制度の利用に関する報道が続いた。(参考:1962/3/12河北新報、1962/3/31読売新聞)

 

37年 4月 全日空の東京―仙台間に「フレンドシップ号」が就航。これを記念する行事が仙台空港で開催され、西多賀ベッドスクールと県整肢拓桃園の子供たちに100組づつ、フレンドシップ号のプラモデルが贈呈された。(1962/4/2河北新報)<<解説>>記事写真から、このとき就航した旅客機は、「フオッカーF.27フレンドシップ」(オランダ製・乗客定員40名)と思われる。

 

37年 8月 西多賀ベッドスクールの第二回同窓会が、5〜7日の2泊3日で開かれた。玉浦ベッドスクールができて以来の卒業生約70人は高校生や社会人として元気に過ごしている。前年に第一回同窓会を開いたところ好評だったので、「今年は七夕見物を兼ねて盛大に開こう」と決まった。仙台市内の高校生ら5人を準備委員に企画を進め、案内状を出したところ神奈川県や青森県からも出席の返事がきた。近藤所長の診察で「異常なし」の太鼓判をもらったあと、西多賀療養所内の面会室や会議室を使って交歓し、松島や七夕を見学した。このとき卒業生たちは、たびたび慰問に訪れた島野仙台市長の夫人(病気療養中)にお見舞いの七夕飾りを贈った。このような合宿の同窓会は、その後数年にわたって続いた。(1962/7/29読売新聞、仙台市政だより771号、1964/8/11河北新報)

 

37年10月 西多賀ベッドスクール親の会会長・県肢体不自由児協会理事の今野さん(骨盤移植がきっかけで前年5月に「県民の母」第一号に選ばれた今野さんの夫)が、ベッドスクール開校5周年を記念して、1日3回一定時刻になると音楽が鳴るミュージック・チャイムをベッドスクールに寄付した。 このころ今野さんは自費で東北6県を歩きベッドスクールの存在を知らせる活動をしていた。(参考:創立30周年記念誌p.28、1962/10/23民友新聞、1963/3/20民友新聞)

 

 

 

38年 3月 西多賀病院の敷地内に「月ヶ丘共生館」が建設された。これは、カリエスや結核におかされた患者が退院後に職場復帰しようとしても難しいという現実に対して、「退院した患者に仕事を与え自活できる道をひらき一人でも多く立ち上がりの機会を与えよう」と、近藤所長が関係者に協力をよびかけたところ、財団法人「共生会」が援助を申し出て建設した授産施設である。第一期として木造平屋建て100uの会館が建てられ、3人が入所。トランジスタ・ラジオの部品を製造しながら生活を始めた。(参考:1963/3/10河北新報、今野喜美子『おかあさんの骨をもらって歩けた』pp.235〜240)

 

38年 4月 このころから、40分授業で1日5時間の時間割を組むことができるようになった。また全国に先駆けて、仙台第一高校の通信教育が西多賀病院で始まった。またこのころ新しい若草鳩舎が完成した。(創立10周年記念誌p11、15、114)。

 

38年 4月 全日空の麻田機長の招待で、ベッドスクールの子供たち50名(当時の在籍90名のうち自力歩行できる者だけ選んだ)が29日、麻田機長みずから操縦する旅客機に乗って仙台 ・松島上空を遊覧飛行し(飛行機は定員50人乗りのDC-3型機で、1回約20分の飛行を25人ずつ2回に分けて飛んだ)、子供たちは大喜びだった。(参考:1963/4/28河北新報 、1963/4/30河北新報、1963/4/30毎日新聞、1963/4/30朝日新聞、1963/4/30読売新聞、1963/4/30サンケイ新聞、1963/4/30福島民友新聞)【写真:麻田機長に感謝の花束を渡す】 >>麻田機長との交流について詳しくはこちら

 

38年 5〜9月 5月、36年5月に県民の母第1号に選ばれた今野さんの体験が著書『おかあさんの骨をもらって歩けた』(番町書房=【写真:表紙】)にまとめられ出版された。さらに9月にはこれを原作とするテレビドラマが山本富士子主演で放送されて人々の感動をよんだ(フジテレビ・シャープ月曜劇場「お母さんの骨をもらって歩けた」 =はじめ放送は7月に予定されていたが主演の山本さんの急病で9月に延期になった)。(参考:創立10周年記念誌p114、創立20周年記念誌p.18、1963/4/25朝日新聞、1963/5/12読売新聞、1963/5/12毎日新聞、1963/5/23河北新報、1963/5/25河北新報、1963/5/27河北新報、1963/5/29河北新報、1963/6/2朝日新聞、1963/6/17全医労新聞、1963/6/22福島民友新聞、1963/7/13スポーツニッポン、1964/7/13東京中日新聞、1964/7/13サンケイスポーツ、1964/7/13デイリースポーツ、1964/7/13日刊スポーツ、1963/7/18福島民友新聞、1963/7/19河北新報、1963/7/20河北新報、1963/7/22福島民友新聞、1964/8/11河北新報、1963/8/25交通新聞、1963/8/24サンケイ新聞、1963/9/2サンケイ新聞、1964/9/4サンケイ新聞、1963/10/21河北新報、1963/10/22河北新報、1963/10/22毎日新聞、1963/12/31毎日新聞、)

 

38年 9月 このころ仙台ライオンズクラブの寄贈と東北学院大学セツルメント会の学生の労力奉仕によって前庭にプールが完成した(創立10周年記念誌p15、115)。【写真】

 

38年10月  このころ篤志家の寄付により、「花時計」と称する六角形の花壇や、砂場ができた。また3年越しの運動が結実し、生活指導員として保母2名が配置された。(創立10周年記念誌p11、15、114)

 

39年 2月 親の会会長・今野さんから、著書出版記念として大時計が寄付され、どの病室からも見える庭に備え付けられた(参考:創立10周年記念誌p15、1964/2/24河北新報、1964/2/24朝日新聞、1964/2/24毎日新聞、1964/3/16福島民友新聞)。

 

39年 7〜8月 東北学院大学ワークキャンプの学生と職員の手で、松林に弓場を作った(参考:創立10周年記念誌p15)。

 

39年 8月 ベッドスクールの同窓会が開かれた。(参考:1964/8/11河北新報)

 

39年 3〜9月 当時全国に約3000人の患者がいると推定された進行性筋萎縮症(筋ジストロフィー)児の「親の会」が3月に結成された。そして親の会が厚生省など関係機関に治療と研究の推進を働きかけた結果、5月になって厚生省が同症の対策要綱を定め、原因究明と治療法開発などの本格的研究に着手。全国2箇所(西多賀療養所と、国立下志津病院(千葉県四街道町))に各20床の専門病棟を設置して、大学(東北大学・東京大学)とも連携しながら、治療・保護にあたることになった。西多賀療養所には近藤所長の英断で、35年から筋ジスの患者が2名入っていたが、専門病棟が設置されたのを境に入所希望の問い合わせが続き、まもなく満員になった。なお、当時筋ジスが児童福祉法の療育費補助の対象になっていなかったため、厚生省は9月ごろから別枠で予算を請求するとともに児童福祉法改正案を国会に提出し、翌40年度から筋ジス児にも療育費が支給されるようになった。(参考:西多賀病院創立35周年記念誌p7、1964/5/7河北新報、1964/5/8朝日新聞、1964/5/21河北新報、1964/8/19〜26河北新報5回シリーズ「“ボクいつ歩けるの”/進行性筋萎縮症の子ら」、1964/9/6河北新報、1964/9/8毎日新聞、1964/12/28河北新報、1964/12/29毎日新聞)

 

39年 8月 仙台市内の5つのライオンズクラブの招待で、ベッドスクールの子どもたちが仙台七夕を見学した。(参考:1964/8/7河北新報 、集英社『りぼん』1965年2月号)。

 

【写真:当時の七夕見学の様子(左)。バスの窓から手を出して吹流しを触っている(右)】

 

39年10月 玉浦療養所で最初に菅原さんが子供たちに勉強を教えるようになってから満10年が経過したのを機会に、10周年の記念式典が西多賀 病院の講堂で行われた。卒業生・保護者・旧職員が多数集まり、さまざまの思い出を語り合った。また120ページに及ぶ豪華な記念文集「ベッド・スクール」(創立10周年記念誌)を発行。さらに創設当時から奉仕を続ける東北学院大学セツルメント会、聖ウルスラ家庭学校に対して近藤所長から感謝状を贈った。(参考:1964/10/28河北新報、1964/10/31河北新報)

 

39年12月 ベッドスクールの歌として、坂本九さんの歌「ともだち」と「行ってみよう」が完成した(参考:1964/12/29河北新報)。>>坂本九さんとの交流について詳しくはこちら

 

40年 3月 カリエスで闘病中の34年に母親の骨盤移植を受けていた今野君がベッドスクールの中学課程(仙台市立西多賀中学校療養所分校)を元気に卒業、通信制高校に進学した。(参考:1965/3/14朝日新聞、1965/3/16河北新報)

 

40年 3月 ベッドスクールのベテラン教諭・高橋先生の横顔が新聞で紹介された。(参考:1965/3/17河北新報)

 

40年 6月 坂本九さん(歌手)が来校した(参考:1965/6/11河北新報)。【写真:来校した坂本九さん】>>坂本九さんとの交流について詳しくはこちら

 

40年 7〜8月 7月17日文部省特殊教育課長視察。8月13日愛知文部大臣視察。 

 

40年 8月 ハワイアンの「大塚竜男とパームセレナーダス」が2度目の慰問に来校、「南国の夜」などハワイアンのヒットメロディーを演奏した。(参考:1965/8/2河北新報)

 

40年 9月 遊歩道「友情ライン」が完成し、4日“開通式”がおこなわれた。約1万uの松林の中に学生たちの奉仕活動で作られた幅1.1mのコンクリート舗装の道が伸びる(総延長458m)。もともとは、35年7月ごろ東北学院大学セツルメント会の学生たちが松林の中にキャンプを張りながら整備した小道。松葉杖の子供たちには好評だったが、道がでこぼこで車イスでは通れなかったため、7月に舗装することになり、同セツルメント会の他、育英高校YMCAクラブ、同校商事クラブ、立正佼成会青年部の学生や生徒が泊り込みで工事を手伝った。開通式では近藤所長のテープカットに続いて、聖ウルスラ学院短大の学生たちなどが車イスを押して歩き初めをした【写真:舗装工事(左)、テープカット(中)、散歩(右)】。(参考:1965/9/5河北新報)

 

40年 9月 新聞の短信欄に「迷いバトが2羽います。1羽は足管の番号は40年153956・・・」と、鳩の飼主を探す記事が「西多賀ベッドスクール飼育係」の名前で掲載された。鳩舎に伝書鳩が迷い込んだと見られる。(参考:1965/9/29河北新報)

 

40年10月 肢体不自由のうえ知的障害を負っているなど二重・三重の障害を負っている子供たちの保護者が、16日宮城県民会館に集まって宮城県重症心身障害児(者)を守る会(親の会)の設立総会をひらき、重症心身障害児の施設を県内に設置するよう求めた。政府は翌41年度予算で国立重症心身障害児施設の設置を決定(全国11ヶ所520床)。西多賀療養所に40床設置された。(参考:1965/10/17河北新報、1965/10/28河北新報、1966/1/14河北新報)

 

41年 1月 21日の朝(6:45〜7:25)、NHKテレビで「ベッドスクールの子どもたち」が放送された。(参考:1966/1/21河北新報)

 

41年 3月 17日小牛田町の宮城高等理美容学校美容科の学生61人が、広告チラシなどで折った千羽鶴を本校に寄贈した。次いで21日の朝(8:00〜)東北放送でベッドスクールの卒業式が中継放送された。(参考:1966/3/21河北新報)

 

41年 4月 宮城教育大学で、カリエス・進行性筋萎縮症などの病弱児教育に関する科目(担当講師:近藤所長)が開講した。(参考:1966/3/12朝日新聞)

 

41年 6月 西多賀病院敷地内に、東北初となる民間授産施設「西多賀ワークキャンパス」(定員50人)が完成した。小児麻痺やカリエスなどにより重度の身体障害を負うことになった人たちが共同生活を営みながら社会復帰への準備をする授産施設。昭和38年3月に月ヶ丘共生館を設立した財団法人「共生福祉会」が建設した。(参考:1965/9/29河北新報、1965/11/21河北新報、1965/11/21朝日新聞、1966/3/11河北新報、1966/5/30河北新報、1966/6/6河北新報)

 

41年 6月 全特協(全国特殊学級設置学校長協会)の第3回研究協議会が仙台市内で開催され、文部省特殊教育課長・同参事官が視察した。29日午後には、西多賀ベッドスクールをはじめとする市内7ヶ所の学校視察が行われた。(参考:1966/6/30河北新報)

 

41年 6月 テレビ番組のロケのため仙台に来ていた俳優の伴淳三郎さんが30日、西多賀ベッドスクールを訪問し子供たちと交流した。(参考:1966/7/1河北新報)

 

42年 9月 県下中学校弁論大会で西多賀ベッドスクールの中学生が優勝と6位を勝ち取った。(参考:1967/9/8河北新報)

 

42年10月 西多賀ベッドスクールの親の会が結成10周年を迎え、29日に記念式典が行われた。このとき、仙台城天守台にある風景指示板などを制作した高橋さん(西多賀療養所の元患者)の手による銅版レリーフの壁掛けが配られた。(参考:1967/11/13河北新報)。また同月文部省審議官が視察。

 

43年 1月 「冬休みを有意義にすごそう」と、仙台市西多賀中学校と聖和学園高校の生徒たちが冬休み期間中、交代で西多賀療養所でのボランティア活動に取り組んだ。療養所に入院している重症心身障害児のために1日2000枚使用するオムツを整理する作業。洗濯・乾燥を終えたオムツを伸ばし、定められた枚数ずつ重ねる仕事に汗を流した。また同時期、仙台市八木山動物公園が施設慰問の一環として西多賀ベッドスクールを訪問。チンパンジーの“賢坊”の曲芸などに子どもたちは大喜びだった。(参考:1968/1/4河北新報、1968/1/12河北新報)

 

【写真:43年の卒業式。証書授与(左)、手鏡を使いながら挨拶を聞く児童(右)】

 

43年 3月 児童生徒会文集『若草』を創刊した。【写真:創刊当初の「若草」】

 

43年 5月 日本精神科看護協会学会に出席のため仙台市を訪れた園田厚生大臣が29日ベッドスクールを視察。近藤所長やベッドスクール親の会から「重症心身障害児のための研究施設を作ってほしい」、「通信教育のスクーリングを療養所でできるようにしてほしい」、「養育費給付の通用枠を広げてほしい」、「筋萎縮症の原因究明を急いでほしい」などと、さまざまの陳情・要望を行なった。(参考:1968/5/30河北新報)

 

43年 5〜8月 このころ仙台精密材料研究所西多賀工場の職員(ドライブクラブのメンバーたち)が、ベッドスクールの子どもたちを毎月1回ドライブに招待するようになった。病気のため戸外へ出る機会がほとんどない児童生徒を連れて、仙台空港で飛行機を見学したり、相の釜海岸でのキャンプを楽しんだ。また同時期、東北学院大学セツルメント会の学生たちが、友情ラインの松林の巣箱の取替え作業をした。(参考:1968/6/1河北新報、1968/8/26河北新報、1968/8/31河北新報)

 

43年 6月 西多賀療養所に運動場が設置されたが、整地する予算がなく運動会の開催が危ぶまれていたところ、これを聞いた東北福祉大学の児童福祉クラブの学生が進んで整地作業の勤労奉仕を行い、4回目となる運動会を無事に開催することができた。(参考:1968/6/4毎日新聞、1968/6/7朝日新聞)【写真:43年の運動会の様子】

 

44年 9月 第3回筋ジス児教育研究大会が開催された。

 

45年 4月 西多賀ベッドスクール後援会が発足した(会長:今野正巳氏)。

 

45年 5月 アメリカンハイスクールと交歓会をもった。

 

45年 9月 近藤文雄・西多賀療養所長が退任し、保坂武雄院長が就任した。

 

45年10月 筋ジストロフィーと闘う青少年を描いたベッドスクール記録映画『ぼくの中の夜と朝』(柳沢寿男監督。16ミリ・カラー、100分)が完成。県内各地で上映され大きな反響を呼んだ。(1971/1/14朝日新聞)【写真:映画のポスター】

 

45年10月 本校の七宝焼が、仙台市中学校美術研究会の特別奨励賞を受賞した。

 

45年11月 ベッドスクールの子どもたちの作品をまとめた詩集『一生に一度の願い』が文理書院から出版され、反響を呼んだ。(参考:1970/12/15サンケイ新聞、1970/12/21福祉新聞、1970/12/28河北新報、1971/1/5日本農業新聞)【写真:詩集の表紙】

 

46年 2月 ベッドスクールの子どもたちを撮影した写真100枚・文集『わかくさ』から選ばれた誌30編と作文3編をまとめた写真詩文集『車椅子のカメラ・アイ』(B5判104ページ)が平凡社から出版され、反響を呼んだ。(参考:1971/1/17朝日新聞)

 

46年 7月 校内の七宝焼き指導などが評価されて、西多賀ベッドスクール(代表:半澤健・教頭)が「すぐれた業績をあげながら世に埋もれ報いられることの少ない教育者を広く全国から発掘しその功績を顕彰する」第20回読売教育賞の「小中高校の芸術教育部門」に入賞。7月10日に東京・新宿の京王プラザホテルで授賞式が行なわれた。(参考:1971/7/3読売新聞、1971/7/3朝日新聞、1971/7/11読売新聞、1971/10/12日本教育新聞 、半澤健「随想百景」徳島新聞連載記事)【写真:読売教育賞の授賞式(左・中)と、賞状およびレリーフ(右) 】

 

46年 9月 教育内容の充実と学校経営の組織化・円滑化を図るとともに、県下の未就学児童生徒に対する教育環境整備を求めて、親の会・後援会が連名で県議会に県立昇格の請願を行なった。

 

47年 2月 毎日新聞創刊100年記念「視聴覚教育振興賞」の特選校(全国10校)に選ばれた。(参考:1972/2/21毎日新聞)

 

47年 4月 坂本九さんが再び来校した。【写真:坂本九さんを迎えて】

 

47年 7月 半澤健・本校教頭が仙台市役所ホールで講演した。「街や社会が障害者を拒絶してはいないか」として、横断歩道や公共施設の段差など、現在で言うところの「バリア・フリー」が不十分である実情を訴えた。これを傍聴していた仙台市民生局長の吉野氏が、市議会に段差解消のための予算70万円を計上すべく市議会に諮り、直ちに繁華街の段差を解消させた。これは「日本初の出来事」とされている。(参考:半澤健氏「随想百景(100)」徳島新聞連載記事)

 

47年 9月 県議会文教警察委員会が県立学校として発足させることを可決。

 

47年12月 県議会が48年4月1日をもって宮城県立西多賀養護学校の開校を可決。

 

48年 3月 県教委に設立準備委員会が設置された。