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昔、こんなことがありました

 学校に保存されている資料から、本校と児童生徒に関する主な出来事を紹介します。

 障害児教育の不足や障壁が、多くの人々の善意とたゆまぬ努力によって克服されていったこと、

 それにより児童生徒が励まされ、本校が発展していった歴史を感じとっていただければ幸いです。

 灰色の文章は略史にある事項、青色の文章がこのページで挿入された記事です。


 

玉浦ベッドスクール時代のエピソード

 

 

(昭和)

29年 8月 国立玉浦療養所に私設養護学級(小学生3名、中学生1名)が誕生。4日菅原進さんが第2病棟1号室で勉強を教え始めた。>>本校創立の経緯について詳しくはこちら

 

30年 3月 養護学級の“第1回修業式”が行われ、菅原進さんが「賞状」を授与した。

 

30年 5月 このころから、数名の患者および職員が学習指導に参加するようになった。【写真:当時の「患者先生」たち。後列左から2人目が菅原進さん】

 

30年 9月 玉浦療養所に近藤所長が赴任した。

 

31年 3月 菅原進さんら患者先生たちが手分けをして、1年間の授業内容や成績資料をもって子供たちの在籍学校へ出向き進級・卒業について相談したが、聞き入れられなかった。同月、玉浦療養所に入院している子供たち12名が3月31日“第2回修業式”を迎えた。ベッド上で近藤所長から“修業証書”を受け取った子供たちは大喜びだった。(参考:1956/4/1河北新報=本校に保存されている記事の第一号)。

 

【当時の玉浦療養所】

 当時の航空写真。写真上辺が東方向で、太平洋が望める。緑点で示した所が玉浦療養所。黄点で示した建物が仙台空港事務所。

 当時の玉浦療養所全景。写真上辺が南方向。青点で示した所が正門。赤点で示した建物が昭和31年にベッドスクールのために新築された第6病棟。

 

31年 7月 岩沼町議会および県議会に対して公立養護学級設置の陳情をし、7月24日に岩沼町教育委員が視察した。

 

31年 8月 患者先生の一人菅原久助さんが、仙台市内の及川時計店の三男の方と知り合いだった縁で、子どもたちが不自由な手をつかって薬包紙で折った千羽鶴を「七夕まつりを見れない身代わりに店に飾ってもらえないか」と、及川時計店に頼んだことがきっかけとなって、及川さんが「ベットで寝たきりの子供たちに七夕まつりを見せてやりたい」と療養所の子供たちを自宅に招待し、七夕まつりを見せた(NHKがこれをラジオで報道した=本校が電波で報道された最初)。及川さんの招待による七夕見学は以後3年にわたって続き、その後は仙台ライオンズクラブに引き継がれて、ベッドスクールに欠くことのできない年中行事になった。(参考:創立10周年記念誌p10,p103、1957/7/31河北新報、1958/8/7河北新報)【写真:及川時計店の前で】

 

31年10月 このころ東北学院大学セツルメント会が初めて慰問に訪れ、以後数十年にわたって奉仕が続いた。(創立10周年記念誌p13、p103)

 

31年11月 療養所に教材がないことを知った岩沼町の6つの小中学校の児童生徒が、自発的な募金活動で集めた1万7000円で、オルガン1、木琴4、鉄琴1など多数の楽器を購入して療養所に寄贈した。このときオルガンが寄贈されたことで、病室は一段と学校らしくなり、11月17日朝日新聞報道によって本校を称して「ベッドスクール」の呼び方が初めて使われた。(参考:創立10周年記念誌p10,94、1956/11/17朝日新聞、1956/11/19河北新報)【写真 :楽器の贈呈式】

 

31年11〜12月 11月5日に近藤所長が岩沼町議会と宮城県議会に請願書を提出した。岩沼町議会は激しい議論の末に11月25日満場一致でこれを採択した。次いで11月29日に県教委次長・同総務課長・同学務課長らがベッド・スクールを視察して、明春からの分校設置の方針を決め、12月27日に県議会がベッド・スクール設置を満場一致で議決。さらに翌32年3月県教委の定例委員会で玉浦小・中学校矢野目分校の設置が決まった。(参考:創立10周年記念誌p9,33,42,91-93、ベッド・スクール同窓会創立35周年記念誌p66-72、1956/11/17朝日新聞、1956/11/20慈恵新聞、1956/11/21朝日新聞、1956/12/1朝日新聞、1956/12/1河北新報、1956/12/28朝日新聞、1957/2/20朝日新聞、1957/2/20河北新報、1957/2/24河北新報、1957/3/22朝日新聞)【写真:開校前の修業式。近藤所長が枕元で賞状を渡している。画面左端は菅原進さん。】

 

32年 3〜7月 初代患者先生の菅原進さんが玉浦療養所を3月末に退院したが、子どもたちは菅原さんを慕って離れようとしなかった。そこで子どもたちのために、7月に近藤所長が菅原さんを療養所職員(指導員)として採用した。(参考:1958/6/20読売新聞)

 


 

32年 4月 岩沼町立玉浦小・中学校矢野目分校(児童数16名、生徒数7名、職員数1名)となる。【創立周年の起算点】

 

32年 4月 6日に開校式を挙行した。この日岩沼町は式参列者のために貸切バスを手配し、町幹部はもちろん、町議員その他関係者が多数参加。ラジオ・テレビなど報道関係者で式場は身動きできない状態だった。ずらりと並んだベッドには開校の喜びに頬を紅にそめた子どもが横たわり、保護者席には感激の涙にむせぶ家族の顔があった。子どもたちは手に手に鏡をもち、校長先生や来賓を映しあっていた。息づまるような雰囲気の中にも、学校で学べる喜び・感激がみなぎって、忘れることができない日となった。一方、公立の学校になったとはいえ担当教師はわずか1名で、これで小学1年生から中学3年生まで23名の子どもたちを教えることはできず、患者や職員による先生は引き続き援助をした。(参考:創立10周年記念誌p10,40,97)

 

昭和33年ごろの玉浦小学校校舎

昭和33年ごろの玉浦中学校校舎