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県立移管の経緯

  分校からの独立は、厳しく、また遠い道のりでした。

  日本では長らく、病弱の心身障害児は「就学免除」や「就学猶予」とされていました。   そのため多くの病弱児は、就学年齢に達しても学校に行かせてもらえず、家庭に放置されていました。   たとえば1969(昭和44)年度の文部省調査によれば、「義務教育年齢に達している心身障害児(推定52万8000人)のうち、 養護学校・特殊学級に在籍している児童は約15万8000人で、その就学率は約30%」とされています。   特に「病弱虚弱児童の就学率はわずか8%」という状態だったのです。このような状況を憂い、 「すべての病弱児に教育の機会を与えるべきだ」と考える人々は、それぞれの地域で努力を重ねていました。

 模索の時期

  西多賀ベッドスクールでは、1962(昭和37)年8月に関係7団体が集まって「養護学校設置推進既成同盟」を組織しています。
  しかし現在これについて詳しいことはわかりません。
  1965(昭和40)年ごろ、西多賀ベッドスクールは、いろいろな課題を抱えていました。
  建前上は「仙台市立西多賀小中学校(普通学校)の分校」ですが、 実際には病弱の児童生徒が対象なのですから、教育内容(教育課程や使用教材)は違ったものにならざるを得ません。
  しかし本校と分校で教育課程が大きく異なるのは、成績評価などの面でいろいろ不都合がありました。
  また分校の教員は本校の教員の中からしか選べませんので、「病弱児教育に意欲のある教員が欲しい」と思っても、 まず本校である西多賀小中学校に転勤してきてもらう必要があります。【写真】1967(昭和42)年ごろ半澤先生(右)と教え子たち。
  しかし病弱児教育に意欲のある教員だからといって西多賀小中学校に転勤できるとは限りません。
  人事・組織の面で、分校であることは大変不都合でした。
  さらに予算の面でも課題がありました。当時の西多賀ベッドスクールの予算は乏しく、 例えばキャスターつきピアノをはじめとする備品や筋力が衰えた生徒のための高価な教材はもちろん、 消耗品から電話代にいたるまで、西多賀病院からの多大の経済的援助が不可欠でした。
  このような事情を背景に、ベッドスクール内部では、「子どもたちの教育を充実させるためには、どうしても独立することが必要だ。
  なんとかして独立した学校となり、独立した校舎をもてないだろうか・・・」という思いが、大きく膨らんでいったのです。
  ちょうどそのころ、1966(昭和41)年4月から、宮城教育大学で、教員免許を取得する学生のために、 カリエスや進行性筋萎縮症などの病弱児教育に関する科目が開講し、病院長の近藤先生が担当講師になって授業が始まりました。
  近藤先生は、当時西多賀病院が国立であったところから、ベッドスクールを国立の養護学校とすることが妥当と考え、 宮城教育大学長に非公式に検討を依頼しました。
  近藤先生の意向に沿って、6月には、教育関係者や病院関係者また保護者たちが「附属養護学校設置連絡会」を結成し、 「西多賀ベッドスクールを宮城教育大学の附属養護学校としてほしい」と同大学に申し入れたこともありました。
  しかし1969(昭和44)年8月、宮城教育大学から学長・特殊教育担当教授・事務当局数名がベッドスクールに来られて、 「国立養護学校設置は不可能」と伝えられました。
  その最大の理由は、(教員免許取得のための科目はあるが) 「病弱教育学」という学術分野は存在しないので附属教育機関としての役割を果たしえない、というものでした。


  このころ分校主任としてベッドスクールのまとめ役であり、1969(昭和44)年からベッドスクールの教頭になっていた半澤健先生と、 病院長の近藤先生は、「それならば今後は、仙台市立もしくは県立の養護学校としての独立をめざそう」と考えました。
  そして、まず仙台市に働きかけました。ところが仙台市教育委員会の学務課は、 「財政上の問題から校舎建設は不可能ゆえ、県立移管すべき」との考えでした。
  一方指導課は、これまでのベッドスクールの実績を評価して仙台市立とすることには賛成でしたが、 「校舎建設までは難しい」という考えでした。
  独立によって新しい校舎を建設したいと考えていた近藤先生や半澤先生は、 仙台市立養護学校としての独立をあきらめざるを得ませんでした。

続く・・・県立移管をめざした運動