療育費制度の実現と、「お母さんの骨をもらって歩けた」

  ここでお話する「療育費制度」とは、障害児や病弱児の医療・学習・生活にかかる費用を国や地方自治体が支援する福祉制度のことです。
  現在ではこの制度があることによって、収入の少ない家庭の子どもでも、十分な治療と教育が受けられるようになっています。しかしこの制度が昭和20年代から 40年代にかけて少しずつ整備されていく過程には、多くの人々の献身的な努力がありました。
  その中でも特にカリエス児童に対する療育費制度の実現に奮闘したのは、 子どもを愛してやまない玉浦ベッドスクール・西多賀ベッドスクールの親たちでした。そのドラマの一部を紹介します。

  患者先生・菅原進さんを中心とする私設養護学級が「玉浦小学校矢野目分校」として公認される約半年前のお話です。

昭和31年の夏、玉浦療養所に一人の少年が入院しました。
  2歳のときに突然カリエスを発病してから歩けなくなっていた今野正広君(7歳)でした。 両親は、2歳になるまで健康優良児だった今野君がある 日突然病気になったことをとても悲しみ、仙台市内の医師や病院を何軒も訪ね歩きました。
【写真:小学校5年生のとき,手術後ベッド上に起きても良くなった頃の今野君。】
  しかし病状は改善することがないまま、発病から実に5年後になってようやく、当時国内随一のカリエス専門療養所だった玉浦療養所にたどり着いたのでした。
  「病気を治しながら勉強させてもらえる学校はないか」と願っていた両親は、そこで患者先生が授業をしていたことをとても喜びました。
  しかし同時に、このとき両親は、長期療養の子どもに対する福祉制度が決して十分ではなく、子どもたちは教育の 機会均等の原則からも見放され、児童憲章も空文化しているという社会の実情を見せつけられることにもなったのでした。

  【補足】 当時は、全国に約5万人のカリエス児童がいるとされていましたが、その大部分は不完全な治療しか得られず、就学もできずに放置されていました。
  たとえ療養所に入ることができても、入所費用が月額1万2000円以上かかったので、健康保険その他の社会保険給付はあっても、月に5000円〜6000円は自己負担 せざるを得ませんでした。
  しかも当時、社会保険の給付はたった3年間で打ち切りでしたから、療養に何年もかかるカリエス児・結核児をもつ家庭にとって、医療費にあてるお金をどう 工面するかは大問題でした。
  なにしろ当時のサラリーマンの月給は1万円程度だったので、収入のほとんどが入院・治療の費用に消えてしまいます。
  そのような生活を長年続けることは普通の家庭にはとても厳しいことで、なかには費用を払うことができず病気がまだ治っていないのに無理に退院させて、 結果的に死亡させてしまうような悲しいケースもありました。

  当時の児童福祉法では、身体障害のある子どもには療育費が給付されていました。しかし結核の児童は保護されていませんでした。
  昭和32年ごろから厚生省が結核児童に対する療育制度の整備に着手した当時でも、最初カリエス児童についてはその存在がまったく考慮されていませんでした。
  昭和26年に厚生省が制定した「児童憲章」には、「すべての児童は、身体が不自由な場合、または精神の機能が不十分な場合に、適切な治療と教育と保護が受けられる」 と書かれていましたが、現実は正反対だったのです。

続く・・・「おかあさんの骨をもらって歩けた」 【2】